御挨拶

 

 
「不断の努力」を注ぐべき典型的なケース

今井 亮一(いまい りょういち)
「遠藤国家賠償訴訟を支援する会」代表

 みなさん、初めまして(あるいは、お久しぶり)。当会の拙い代表、今井亮一です。仕事は著述で、交通違反&取り締まりを専門にフィールドワークしています。1954年6月生まれ、東京都三鷹市在住です。髪、薄いです。

 「遠藤国賠」の東京地裁判決にはびっくりタマゲました。要するに、

 ふつうの裁判官の4分の3以上が無罪とするものを有罪とすれば、賠償責任も生ずるが、本件(遠藤事件刑事一、二審)はそれほどではない。だから責任をとる必要はない、

というわけです。あんなひどいこと、たとえば、

 不可解な過程で発見、鑑定されたピコグラム単位の血(とされるもの)をもって、19×20センチのべったりついたシミのすべてが被害者の血液だ、

とするとか、そういうムチャクチャなことを、

「ふつうの裁判官」の4分の1以上はやる、遠藤事件はごくふつうのことだ、
と、堂々と言ってのけたわけです。

 裁判傍聴をつづけていると、よくわかるのですが、多くの裁判は、起訴事実をすべて認め、「どうか寛大な後判決を」という被告人に対し、相場にしたがった刑罰を宣告し、少し説教をたれる、そういうものです。黒い法服の裁判官は厳かで公正でリッパに見えます。ところが否認事件となると、「おいおい、そりゃひどいんじゃないの」という訴訟指揮をして、有罪に持ち込みんでしまうのです。

 キリスト教式の結婚式が思い浮かびます

汝、健やかなるときも病めるときも変わらず愛し続けるか――。

なるほど、

カネがあって健康なときはニコニコ、
カネがなくなり病気にでもなればブーブー、サヨナラ、

そんなのは愛じゃないわけです。裁判にも、同じことが言えるでしょう。

 しかし、ただ怒っていてもナンにもなりません。「公正にやってほしい」とお願いしていても、どうにもなりません。日本国憲法第12条の前段にこうあります。

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

 国民が「不断の努力」をしなければ、せっかく憲法が保障してくれた「自由及び権利」は、どんどん奪われていってしまうぞと、そういうことを言っているのです。遠藤さんは、20歳のときの事件で、犯人に仕立て上げられ、人生のほとんどを冤罪に、裁判に奪われたといえます。でも遠藤さんはそれと引き替えに、私たちに対し、「不断の努力」を注ぐべき典型的なケースを与えてくれた、ともいえるでしょう。