新潟地裁一審判決
昭五二(わ)五五号、昭57・9・3判決

 

 
判決

【主文】 被告人を禁錮六月に処する。

この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
【理由】 (罪となるべき事実)

 被告人は、宮城県岩沼市内の運送会社に勤務し、普通貨物自動車の運転業務に従事していたものであるが、昭和五〇年一二月二〇日夜、富山県高岡市まで積荷を運送しての帰路、右自動車を運転して、国道四九号線を新潟市方面から福島県会津若松市方面に向かい、時速約四〇キロメートルで走行中、同日午後九時二三分ころ、新潟県東蒲原郡津川町大字津川三四四五番地先道路にさしかかったが、当時夜間であり、しかも現場付近には霧が発生していて必ずしも前方の見通しが良好とはいえない状況にあったのであるから、適宜速度を調節し、一層前方の注視に努め、進路の安全を十分確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前方注視不十分のまま漫然前記速度で進行した過失により、折から酩酊してセンターライン付近の進路上に横たわっていた伊藤力(当時四〇歳)に気付かず、自車右側前・後輪で同人の頭部か、胸部にかけての部分を轢過し、よって同人に対し、頭蓋骨、顔面骨、肋骨骨折等の傷害を負わせ、即時同所において同人を右障害に基づく脳挫滅、左頸動脈破裂離断による出血等により死亡させたものである。

 (証拠の標目)〈略〉

 (被告人を有罪と認定した理由)

 弁護人は、本件事故は、被告人の運転する普通貨物自動車(以下、被告人車という。)が通過した直後に本件現場にさしかかった被告人車の後続車両によって起されたものであって、被告人車によるものではないから、被告人は無罪であると主張し、被告人も、当公判廷において、これに沿う供述をするので、以下、当裁判所が被告人を有罪と認定した理由の要旨を示すこととする。

第一 現場及び死体の客観的状況

 本件について検討を進める前提として、先ず、事故発生現場の状況、死体の状況等の客観的事実を、関係証拠により認定整理して摘記する。

 一 現場付近の道路状況

 現場は、新潟市と会津若松市を結ぶ国道四九号線上で、新潟市方面から進行していくと、同県東蒲原郡津川町の商店街にさしかかって暫く進行した地点にあり、道路の両側には商店、事務所等が立ち並んでいる。現場を中心として新潟市方向へ約二〇〇メートル、会津若松市方面へ約二七〇メートルが直線となっていて、見通しの良い道路である。現場からさらに会津若松市方面に進むと、約二七〇メートルの地点から、ほぼ直角に右折、左折が連続する特異なクランク型の部分があって、これが現場付近の道路状況の一つの大きな特徴となっている。

 ところで、現場は、道路全幅員約九・八五メートル(外側線の内側の車道部分のみでみると、約六・五五メートル)とかなり狭い、片側一車線でアスファルト舗装の道路であり、会津若松市方面に向い若干登り勾配となっている。最高速度は時速三〇キロメートルに制限され、かつ、道路中央には黄色実線の道路標示があり、追越しのための右側部分はみ出し通行禁止の場所と指定されている。そして、センターラインの左側(新潟市方向からみて)にほぼ接して、幅約三〇センチメートルのコンクリート製消雪パイプが敷設されており、その部分は周囲の路面より約二センチメートル高くなっている。

 二 事故発見時の被害者の位置、姿勢等

 被害者は、事故当夜午後九時二五分過ぎころ、死亡して現場に横たわっているところを、会津若松市方向から車で帰宅してきた現場付近の住人中川丈次によって発見された。この時の被害者の姿勢を、道路との位置関係と対比しつつさらに詳しくみると、被害者は、道路中央付近において、その胸腹部を前記消雪パイプの上に乗せる形で、頭部を会津若松市方面に向かう車線(以下、東行革線という。)上に、下肢を新潟市方面に向かう車線(以下、西行車線という。)上に置き、消雪パイプに対してやや斜め(頭部が下肢よりやや新潟市寄り)にして、顔面を含めて身体全体を会津若松市側に向ける状態、即ち身体の左側を路面につけ、両足をやや重ねるようにしてうつ伏せ加減に倒れていたものである。小川は、発見時の被害者の状態について、「二、三メートルのところまで近づいてみると、顔から頭の怪我がひどいのが分かり、気が動転していた。その人は顔が判別できないほどに崩れており、また頭の出血がひどく血が路面に流れ出していた。」旨を供述している。

 三 現場路面に残された痕跡

 ところで、被害者の死体を逗び去った後の現場路面には、次の痕跡が残されていた。

 (イ) 被害者の頭部のあった位置に相当量の血液があるほか、現場付近が新潟市側へやや下り板となっているため、右の血液が幅約七センチメートル、長さ約一・四メートルに亘って新潟内方向へ流れ出している。

 (ロ) 流れ出した血液の一番先端の部分(即ち、被害者の頭部のあった位置から新潟市方向に約一・四メートルの地点)に、新潟市方向から見るとやや左斜め前方向に向かう幅約一〇センチメートル、長さ約二○センチメートルの範囲で比較的大きな数条の擦過痕があり、毛髪が多数付着しているうえ、その一番道路左端寄りの部分(新潟市方向から見て)に、深さ約三ミリメートル、長さ約四ないし六センチメートルの三条のひっかき痕がある。この擦過痕の会津若松市方向に最も寄った部分に養竈等四本があった。右ひっかき痕は、義歯等が路面にこすりつけられて、これを抉ったものと認められる状況にある。

 (ハ) 大きな擦過痕の会津若松市寄りの部分の道路中央側に、大きな擦過痕とは方向を異にし、新潟市方向から見て右斜め前方向に向かう比較的小さな数条の擦過痕があるが、証拠上その幅や長さの詳細は詳らかになし得ない。

 (ニ) 以上のほかに現場に散乱していたものとしては、擦過痕のあった地点を基点として、会津若松市方向へ約三・一メートルの地点に義歯(サンプラチナ歯)、約一一・三メートルの地点に義歯(金歯)があり、また、同様約四・六メートル及び約八・四五メートルの各地点に毛髪様のもの各一本、約一〇・五メートルの地点に血液様のものが付着した毛髪様のもの数百本の束がある。これらはいずれも東行車線側に約三メートルの幅の範囲で散乱している。

 四 死体の損傷部位とその程度等

 (一) 被害者の死体の状況は概ね次のとおりである。

 (イ) 身長一六〇・四センチメートル、体重五四・六キログラムで体格、栄養は中等。血液は0型。

 (ロ)左側頭後部より後頭左側に及ぶ約手拳大 紫紅色の皮下出血、同部に一致して頭蓋骨骨折。

 (ハ) 前額髪際(正中の右方二・五センチメートルの部)より右眉毛外端に至る長さ約八・九センチメートルの創傷があり、これより左やや下方に走り、左眉毛外端の下方約一・五センチメートルの部に達する長さ約一二センチメートルの創縁が連続し、全体として不整V字状を呈する。この創傷は、前額部の皮ふが頭蓋骨より剥離して下方に関く弁創となって、前頭骨より顔面骨の骨折が露出している。

 (ニ) 右前額より右こめかみ部、右頬部、鼻右側、口部及び顎右側にわたり赤褐色の広幅な表皮剥脱あり、同部に一致して顔面骨骨折が認められ、頭部は顔面左側を下方にして圧平された状態。

 (ホ) 上下顎骨は、それぞれ右第一、第二切歯間で骨折し、歯の一部は脱臼。

 (ヘ) 頭蓋骨は、前頭骨より左右側頭骨及び後頭骨の冠部下方をほぼ一周するように骨折し、同底面は、前、中、後頭蓋窩ともに大小不同の骨折に粉砕骨折し形態をとどめない。これら骨折に連続して顔面骨、上下顎骨の骨折((ホ)に記載)が認められる。

 (ト) 大脳は、ほほ形態をとどめるが、脚、橋、小脳(特に右側)に亘る脳峰部を中心とする脳底は、形態をとどめぬ程度に挫減し、延髄は離断している。

 (チ) 頸部は(ニ)に記載した表皮剥脱に連続して、前頸右側より右側頸に亘り同様の表皮剥脱が認められる。

 (ソ) 甲状軟骨は、正中で骨折し、舌骨もほぼ正中で骨折している。

 (ヌ) 上胸部は、扁平となり右鎖骨の骨端が前方に脱臼突出して隆起している。頸部より連続して赤褐色の表皮剥脱が数個認められ、紫紅ないし帯青色の皮下出血が散在している。

 (ル) 肋骨は、前面において左右第一ないし第三肋骨骨折及び左右胸鎖関節の骨折があり、後面において左第一、第三及び右第二、第三肋骨に骨折がある。

 (ヲ) 右の肋骨骨折部に一致して、左総頸動脈が破裂離断している。

 (ワ) 左上肢において、手背の中指より小指側に亘る部から中指環指小指に亘り、広幅な暗紫紅色の皮下出血。手背に「山」字状の暗赤褐色の表皮剥脱。示花の中手指関節部に一×〇・二センチメートル及び半米粒大の表皮剥脱及び大豆大紫紅色の皮下出血各一個。小指尺側の中節、末節に亘り二×一・五センチメートルの赤褐色の表皮剥脱。

 以上の如く、死体の主要な損傷は、左上肢のほかは胸部よりも上方に限定されている。

 また、現場から病院に搬送直後の死体及び衣類には、以上のほか次の異常が認められた。

 (カ) 上衣として着用していた防寒用ジャンパー(うぐいす色)の右肩と左肘部分に硬い何かに擦った痕跡あり。

 (ヨ) (ハ)に記載した頭蓋骨より剥離した前額部の皮ふの内側の一部に泥が付着していた。

 (タ) 口中には破損した義歯があり、血が相当たまっていた。

 (レ) 左手環指にはめている指環が圧迫され変形している。

 (二) ところで、被害者は、後記のように、当夜相当量の飲酒をしたものと認められるが、解剖時のアルコール濃度をみると、血中〇・三六二パーセント、尿中O・四二パーセントとかなり高い数値を示しており、個人差はあるにしても、かなりの酩酊状態にあり、歩行困難、意識不明確、思考力減退の状況にあると認められる。

 五 以上に要約した発見時の被害者の死体の状況、現場路面に残された痕跡、死体の損傷の部位・程度、後記認定のとおりの被告人車の痕跡状況等から、被害者は、酩酊して路上に横たわっているところを、新潟市方面から会津若松市方面に向かう自動車に轢過されたものであって、しかも、死体の損傷状況及び現場路面上の痕跡状況等に照らせば、轢過に二台以上の車両が関与しているとは考えられないこと、そして、死体の損傷の程度等からみて、加害車両と推定される車種は、普通乗用自動車のように軽量の自動車ではなく、もう少し重量のある中量級のトラック、バスの類であることがそれぞれ認められるのである。

第二 事故発生の時刻

 一 被害者の当夜の行動等

 まず、関係証拠によって認められる被害者の当夜の行動を見るに、被害者は、当時新潟県長岡市内の新幹線工事現場に人夫として出稼ぎに出ていたものであるが、週末には同県東蒲原郡鹿瀬町内の自宅に戻ることにしており、事故当日は土曜日で、作業終了後列車で自宅に向かった。しかし、その途中、隣の津川町に住む友人の木村栄治に会ったことから、同人とともに酒を飲みたくなり、木村が津川駅で下車するのを追うようにして自己も途中下車し(被害者の自宅最寄りの駅は、さらに二駅先の日出谷である。)、先ず同人方で飲酒したあと、津川町内のスナック等二軒を回って飲酒した。三軒目の店では入店を断られ、気分を害して、再び木村方に戻って飲み直そうということになり、タクシーで同人方へ向かう途中、運転手と料金のことでいざこざを起こし(その詳細は不明)、警察へ行く破目となり、国道沿いにある津川警察署(現場から約九〇メートル会津若松市寄りにある。)に寄って木村と運転手等が署内で警察官に事情を説明しているうち、一人タクシーの中に残っていた被害者は、これを降りて、警察署より二軒ほど会津若松市寄りにある立花屋旅館に入り込んだ。そして、泥酔の体で同旅館の洋間ソファに腰かけて休んでいたところ、従業員から「タクシーを呼ぼうか。」などと声をかけられたが、被害者はこれを断り、歩いて帰る旨告げて、足許をふらふらさせながら、同旅館を出て新潟市方向に歩いて立ち去った。この時刻がほぼ同日午後九時前後である。被害者は、前後の状況からみて、列車で帰宅すべく徒歩で津川駅に向かったものと推測される。

 なお、被害者の当夜の飲酒量については、証拠上必ずしもこれを詳らかにはなし得ないが、少なくとも日本酒合計四ないし五合にウイスキー水割り等を若干量飲んで、高度の酩酊状態にあったことは明らかである。

 二 波多野孫栄の目撃状況

 関係証拠を総合すると、立花屋旅館を出た被害者の姿を次に見かけたのが波多野孫栄であると認められる。即ち、波多野は、現場より約二七〇ないし三〇〇メートル新潟市寄りの地点で、「松月」という屋号で焼肉屋を営んでいるものであるが、当日店で飲食していた客の宮川実が相当酔ってしまったため、同人を自宅に送り届けるべく、午後九時一〇分ころ店を出た。そして、約四五〇ないし五〇〇メートル離れた宮川宅まで同人を車で送ったが、この間、「松月」から会津若松市方面に向けて走行中、津川農協前(事故現場)にさしかかったとき、「あたらしや」菓子店と旅館「あかいわや」の間の道路右側の雁木のところからふらふらしながら道路中央方向に進出してくる被害者を見かけた。その時の状況について、波多野は、「その人は相当に酔っているようでよろけて右手を道路につきそうになって(実際手をついたかどうかは見ていないので分からない)、屈むような格好でちょうど津川駅に向かうような様子で、新潟市寄りに斜めに道路に出てきた。同人が雁木のところから二ないし三メートル出てきたところで、道路中央線をはさみ車一台分位の間隔をとって同人の横を通り過ぎたが、それが「あたらしや」菓子店の前辺りになる」旨を供述している(第一五回)。そして、波多野は、津川警察署付近の江森酒店の角を右折して暫くのところにある津川町商工会館の付近で車をとめ、少し歩いて宮川宅まで同人を送り届けたが、そこで救急車かパトカーのサイレンの音を聞いた。それが午後九時三〇分ころである。

 ところで、その被害者目撃の時刻であるが、波多野は、午後九時一〇分ころ店を出たが、車に乗る前に二人で立小便をしていること、車をとめた商工会館から宮川方までは多少距離があること、現場が、「松月」から商工会館までの間の距離の半分よりやや過ぎた地点にあることなどを総合すると、右目撃時刻は、およそ午後九時二〇分前後ころと推定される。

 三 斎藤操の目撃状況

 関係証拠を総合して検討すると、被害者の生前の最後の姿を日撃したのは、証拠上では斎藤操であると認められる。

 (一) 斎藤は、地元津川市街地を運行している新潟交通の定期バスの運転手であるが、当夜は太田発午後九時六分の津川駅行最終バスに運転乗務した。太田(現場から約八キロ会津若松市寄り)を定刻に発車し、天満(現場から約四キロ)も定刻の午後九時一四分に通過したあと、国道四九号線をさらに津川駅に向かったが、当夜はたまたま一人の乗客もなかったことから、津川駅まで行かずに、当時麒麟橋手前にあった‘新潟交通の津川営業所に入構した。この時が午後九時二三分ないし二四分ごろと認められる。

 ところで、同人は営業所に入る直前に、現場で被害者を見かけているのであるが、その時の状況については同人は、「津川警察署のバス停から約四〇メートル進んだところ、道路前方のセンターラインの付近に何かあるのが、その手前約二〇ないし三〇メートル位の地点で分かった。一〇メートル位に近寄って人と分かったので危ないと思い、徐行して近づいて窓越しによく見ると、センターラインの右側(即ち東行車線側)にいるので、自車で轢く心配はなかったが、人がうつ伏の状態で頭を新潟市方向にし、足は縮めて、センターラインに対して斜めに、頭が胴よりセンターラインから離れる形で倒れていた。センターラインに近いところで二〇ないし三〇センチメートルあったと思う。顔がどちらを向いていたか覚えていないし、動いていたかどうかも分からないが、その時は寝ていると思った。若し怪我をしたり死んでいるのが分かれば、現場を離れることはない。乗客もいなかったし、警察に連絡したと思う。ちょうどその人の横を通過する時、新潟市方向からタクシーがさしかかり、これも倒れている人を見て左に避けて徐行し、バスとは人をはさんですれ違う格好になったが、タクシーの運転手も窓を開けてその人の方を見ていた。このあと営業所に入構し、そこにいた車掌に、人が寝ていて危ないから警察に連絡してくれと頼んだ。その人を見た時間は、現場まで天満から七、八分かかるので、午後九時二〇分から二二分の間くらいと思う。」旨を供述している(尋問調書及び同人の司法警察員に対する供述調書)。

 (二) 同人が、事故当日までに、右路線を含む津川市街地を運行して約二七年に及ぶベテラン運転手であることや、当夜はたまたま乗客が一人もなく、運行時間に狂いの生じる要素が乏しかったことを考慮すると、同人の運行時間の感覚は確かなものと。信頼してよいと認められるうえ、現場通過後営業所に入構し事務室に入った時刻(午後九時二八分)や、同人の当夜のタイムカードの時刻(午後九時三〇分)とも矛盾のない結果が出ていることから、本件においては、同人が供述するバスの現場通過時刻(午後九時二〇分から二二分)は、かなり正確なものと考えてよいと思われる。

 (三) 前記波多野の目撃状況と右斎藤の目撃状況に彼害者の酩酊度等を総合すると、被害者は、波多野に日撃された状況で道路中央付近まで進出した後、恐らくセンターライン付近を新潟市方面に向けて少なくとも約二〇メートル以上(弁護人作成の「交通事故現場周辺地図の作成について」と題する書面から算出)歩行した末、とうとう津川農協前の現場付近で転倒し、路上に横たわったところへ斎藤運転のバスがさしかかってきたとみるのが、轢過直前の状況として合理的で自然な推測というべきであろう。

 四 右斎藤の目撃時における被害者の生死

 以上の認定に対し、検察官は、斎藤の目撃した状況は事故後のものであるとして一部異なる事実を主張している。しかし、斎藤の目撃状況を、事故後のものであることが明白な前記中川の目撃状況と照らし合わせて考察すると、被害者の位置(殊にセンターラインとの位置関係)のほか、姿勢がまるで異なっているうえ、何よりも、中川が被害者に二、三メートルまで近寄り一見して分かった顔から頭の傷やその出血が、被害者のすぐ横を斜め上方から見おろすようにして通過した斎藤に分からないはずはなく、また、ベテランドライバーであるバスやタクシーの運転手(斎藤の見たタクシーの運転手が事故に気付いた形跡も全くない。)が揃いも揃って事故の発生を見逃すということがまず考えられないことに徴しても、検察官の右主張は失当であって、斎藤の目撃した状況が事故前のものであることは疑いを容れる余地がないといわねばならない。

 五 事故発生の時刻

 ところで、事故発見者の中川は、現場に至る走行過程において特に記憶に残ることとして、現場より約二キロメートル会津若松市寄りにある平掘の元ボーリング場付近でバスに追い越されたこと、現場より約四五〇メートル会津若松市寄りにある宮川魚屋の付近でトラックとすれ違ったこと、そしてトラックとすれ違ったあとは現場に至るまですれ違い車両はなかったことを一貫して供述している。追越されたバスについては、斎藤運転の前記新潟交通のバスがそれであることは、右斎藤においてもこれに符合する供述をしていることから明白であるが、トラックについては、現場の状況その他前記のような客観的状況からみて、被害者を轢過した車両と推定されるところ、その形状については、中川の供述に変遷もあり、慎重な検討を要すると思われる。

 そこで、その点の吟味は後に譲ることにして、ここではこのトラックの現場通過時刻、即ち事故発生の時刻を検討しておくこととする。宮川魚屋と現場の間は僅か四五〇メートルほどの距離であるが、その間の道路に第一の一に記載した大きなクランク状の曲折部分があるため、速度をあげて走行することが本来的に困難な箇所であることに鑑み、仮に双方の車速を時速二〇キロメートルから四〇キロメートルの幅で計算してみると(中川も自車及びトラックの速度をその程度のものと供述している。)、トラックの現場通過時刻は中川の現場到着時刻の午後九時二五分過ぎから遡ること一分二一秒ないし二分四二秒程度となる。即ち、事故発生時刻は概ね午後九時二二分から二四分の間ということになる。

 既にみたバスの現場通過時刻と対比しても、以上の検討結果は何ら矛盾するところはなく、バス通過直後に新潟市方向から現場にさしかかったトラックが本件の加害車両であることは動かし難い事実であるということができる。

第三 被告人車の現場通過時刻

 一 被告人車の車種、形状等

 関係証拠によると、被告人車は、昭和四八年式いすゞフォワード・ロングボディー、SBR四五〇型トラックで、全長七・四二メートル、幅二・一九メートル、高さ二・四三メートル、車両重量は前軸一七三〇キログラム、後軸一五八〇キログラム、合計三三一〇キログラム、最低地上高一九センチメートル、最大積載量四・五トン、ホイルベース四・五メートル、後輪片側二輪車(ダブル・タイヤ)であることが認められる。所謂平ボディーの中量級トラックということができる。

 二 バスとのすれ違い地点に関する被告人の供述の検討

 (一) 被告人が右トラックを運転して、当夜、新潟市方面から会津若松市方面に向けて国道四九号線を走行し、ほぼ本件事故の発生した時間帯に現場を通過していることは、被告人及び弁護人においてもこれを認めている。しかし、弁護人は、被告人車は、事故の直前(弁護人の計算によると事故の約四分前)に既に現場を通過していると主張し、その根拠を、被告人が操作段階から一貫して、当夜現場から約一三〇メートル会津若松市寄りの地点にある「阿賀の川タクシー」看板付近でバスとすれ違ったと供述していることに求めている。即ち、バス(弁護人においても、このバスは前記した斎藤操運転の新潟交通の定期バスと認めている。)と、現場よりも会津若松市寄りの地点ですれ違ったというからには、被告人車の現場通過時点では被害者は生きていたはずであるというのである。

 たしかに、前記認定のとおり、バスが現場に到着した際には、未だ被害者は生存していたものと認めるべきであるから、被告人がバスより先に現場を通過し、右看板付近でバスとすれ違ったのが事実であるとすれば、被告人車は本件事故の加害車両とはなりえないものというべきである。

 そこで、今仮に、弁護人の主張するように、被告人車が「阿賀の川タクシー」看板前でバスとすれ違ったとして、当時の現場の状況が合理的に理解し得るものかどうかを、被告人の右供述の信用性の点をも含めて検討してみることとする。

 (二) 被告人は、捜査段階から一貫して現場通過の際、路上に被害者の姿を日撃していないと述べているが、これに対し、その直後に対向して現場にさしかかったこととなる定期バスの斎藤運転手は、被害者が路上に横臥しているのを目撃しているのである。

 本件現場から前記「阿賀の川タクシー」の看板までは、既に認定のとおり、僅か一三〇メートルの距離しかないから、被告人車が現場通過後バスが現場に到達するまでの時間は、双方の車速を時速三〇キロメートルとして三一・二秒、時速四〇キロメートルとして二三・四秒を要するに過ぎないのに、右のようにバスの運転手が目撃した被害者を、その直前に通過したとする被告人が何故目撃しなかったのか、まず、右の点を検討することが必要である。

 その原困としては、大きく分けて次の二つが考えられる。第一は、被告人車が通過する際、被害者は未だ路上に存在せず、その通過後バスの到着前に路上に進出、歩行し、転倒、横臥するに至ったためであること、第二は、被害者は、路上に存在していたが、被告人がその存在を看過して通過したためであることである。

 そこで、まず第一の場合についてみると、被害者は、既に認定のとおり、当夜相当量の飲酒をし、高度の酩酊状態にあったものであり、しかも、波多野の証言等によれば、被害者は、前記「あたらしや」の前辺りで道路中央線方向に進出し、津川農協前の現場まで少なくみても約二〇メートル以上にわたる距離をふらふらとよろけながら酩酊、歩行して、その場に転倒、横臥したと認められるのである。この間の所要時間がどの程度のものであるか、厳密には算出しえないとしても、被害者の右のような一連の行動が、被告人車の現場通過後、バスが到達するまでの前記二三・四秒ないし三一・二秒の間になされたことは、経験則上到底考えられないところというべきである(現場路上に接近走行中のバスの斎藤運転手も被害者のそのような行動を現に見ていないのである。)。

 次に、第二の場合についてみると、被告人が被害者の存在を看過した場合として、被害者の状態にはさらに二つの場合が考えられる。その一つは、被告人車が現場を通過する時点では、被害者は事故現場近くまで進出、歩行中で、被告人車が通過後、現場路上に転倒、横臥したという場合、その二は被告人車が現場を通過した際には、既にバスの斎藤運転手が目撃したのと同様に横臥していたという場合である。

 そこで、まず、その一の場合についてみると、仮に被害者が被告人車の現場通過時に道路中央近くをふらふらと歩行していたとするならぱ(この場合には右第一の場合のような時間的不自然さはない。)、自動車運転者として当然その存在に気づくはずであり、これを看過するということは通常の運転状態ではおよそ考えられないところである。現に前記波多野もいち早く被害者の存在を目撃しているのであり、現場通過時に居眠りはおろか、前方注視も怠っていなかったと述べる被告人が右のような被害者の存在を目撃しえないはずはないというべきである。被告人が被害者を発見しえなかったということは、そもそもかかる状況がその際存在していなかったためとみるのが合理的である。

 次に、その二の場合についてみると、被告人車の現場通過時に被害者が既に横臥していたとするならば、右の歩行中の被害者の場合と同様には、その存在を発見することが必ずしも容易ではないかも知れない(バスの斎藤運転手も何かあると気づいたのは前方二〇ないし三〇メートルであるが、人と気づいたのは一〇メートル位に接近してからと述べている。)。しかし、今度は逆に、被害者が横臥していた位置、状態(斎藤運転手が目撃した状況と同様と認めてよいと思われる。)に照らすと、現場付近の道路幅員(被告人側車線は中央消雪パイプ左側から外側線まで約二・八メートル)、被告人車の車幅、走行位置(被告人は、道路中央寄りを走行していたという。)からみて、現場路上を通過するには、横臥している被害者の轢過若しくはこれとの接触は避けられず、そうなれば、斎藤運転手の目撃する被害者の状況は変わっていたはずである。現に、斎藤運転のバスとすれ違ったタクシーの運転手は、被告人車より小型にもかかわらず、被害者を避けて、わざわざハンドルを左に切って道路左側に進路を変え、その場を通過しているのである。

 これを要するに、以上いずれの場合を想定してみても、被告人車が「阿賀の川タクシー」の看板付近で斎藤運転の定期バスとすれ違ったとしたとすると、他の客観的証拠や措信しうる各証拠により認められる状況事実と符合せず、したがって、被告人の供述は明らかに不自然、不合理であるといわざるを得ない。

 (三) さらに飜って、右すれ違い場所に関する被告人の供述経過及びその内容をみてみると、被告人は、取調べの当初から現場付近でバスとすれ違ったと一貫して述べているが、しかし、その位置については、証拠上、昭和五〇年一二月二四日の司法警察員渡辺良夫による自動車を使用しての道路走行見分の際初めて「阿賀の川タクシー看板」付近と供述するに至ったものと認められるが、当公判廷において、弁護人からの質問の際、被告人は次のように述べて、そこに確たる根拠があった訳ではないことを自認している。即ち、被告人は、第二九回公判廷において、「すれ違い地点については、夜間なのではっきりしないが、ただ現場付近のように幅員の狭い道路だと、大きな車どうしのすれ違いでは、大体お互い左に寄りながら走行するので左前方脇の方も見ることになる。この時『阿賀の川タクシー』とまで読んだ訳ではないが、そういった感じで看板があったことと、それがクランクの直前であったという記憶から、この地点と特定された」旨を供述しているのである。被告人は、現場付近の道路は、当夜も含めて過去に一往復したにすぎないことも述べているのであるから、この程度の曖昧さがあってもあながち不自然ではない。

 従って、被告人がバスとのすれ違いの際に看板を見たとたしても、それが「阿賀の川タクシー」の看板であったかどうかについては疑問の余地もあり、また、これを根拠とするバスとのすれ違い地点も、クランクの手前であるということ以上に明確ではないといわざるをえない。

 バスとのすれ違い地点に関する被告人の供述は直ちに措信しえないものというべきである。

 (四) 結局、被告人車が斎藤操運転の定期バスとすれ違った地点を「阿賀の川タクシー」の看板付近と述べている被告人の供述は、その供述の経緯、内容からみても、また、前記(二)で述べた種々の不自然、不合理さからみても到底採用の限りではなく、ひいては、被告人の右供述を前提として、事故発生時には、被告人車は既に現場を通過していたとする弁護人の主張も失当といわなければならない。

 三 中川がすれ違ったトラックの形状等

 前記第二の五で認定したとおり、中川が本件当夜宮川魚屋付近ですれ違ったトラックが、被害者を轢過した車両と推定されるが、弁護人は、中川の捜査段階から公判段階の各供述を総合して検討すると、中川は、このトラックを被告人車とは全く形状の異なる冷凍車と供述しているものと理解せざるを得ず、同人は決して被告人車を指示してはいないと主張する。

 そこで、中川はこのトラックをどのような形状のものと供述しているかにつき、以下検討するに、なるほど同人が第七回公判において、「すれ違ったトラックは、二トンか四トンか詳しくは分からないが、白っぽい、荷台が真四角の箱みたいなコンテナか冷凍車のような感じのもの」と供述していることは弁護人指摘とおりである。しかし、他方で、同人はその公判供述の約二か月前に、検察官に対し、「トラックは幌付きかどうかは分からないが、その幅から考えて四トンクラスの大きさのもので、少なくとも冷凍車のようなものではなかった。冷凍車なら角張って銀色に見えたりすると思うが、そういうトラックではなかった」旨、全く相反する供述をしているのである。同人は事故直後から一貫して、四トン程度のトラックとすれ違ったことを述べて、検察官に対する供述調書とほぼ同趣旨の供述をしており、比較的特徴をつかみ易いと思われる冷凍車の類を指示してはいないこと、前記の公判供述のあとさらに第一四回公判においてこの点を尋ねられ、「その点は警察での供述が現場を見て、記憶の新しい時に述べているので正しいと思う。」と述べ、その後の供述については月日が経っているので記憶が曖昧になったことを自認していることなどの事実に加えて、そもそも前記第七回の公判供述が、トラックの形状についてのみならず、当夜中川車を追越した車両の台数・車種、バスに追越された地点などについても、当初前記司法警察員に対する供述調書と異なった供述をして、弁護人からくい違いを指摘されるや、いずれも調書の内容が正しいと訂正し(因みに、トラックの形状については、検察官、弁護人のいずれからもそのくい違いを指摘されないまま終わっている。)、また発見時の被害者の位置、姿勢についても、第一の二に記載した現場の客観的状況と異なる供述をするなど極めて思い違いの多いもので、同人が生まれて初めて法廷で証言することでいささか冷静さを失ない、自己の記憶を正しく再現し得なかった傾向を窺いとることができることも併せ考えると、同人が第七回公判で述べたトラックの形状については、にわかに措信し難いものといわざるを得ないのであり、結局、同人の検察官に対する供述調書の内容を採るべく、これによれば、同人のすれ違ったトラックとは、概ね四トン程度のあまり特徴のない極く一般的な形状のものということになる。

 これを第三の一に記載した被告人車と対比してみると、被告人車は最大積載量四・五トンの所謂平ボディーのトラックであるから、右認定の中川の目撃したトラックにほぼ符合するのであり、これまでに認定した現場の状況をも加味して検討すると、中川が目撃したトラックは被告人車以外にあり得ないことは自ずと明らかである。

 なお、弁護人の主張するとおり、仮に中川が宮川魚屋付近ですれ違ったトラックが被告人車ではなく、その後続車であるとすると、被告人車は、弁護人の主張に従えば、計算上宮川魚屋と平堀の元ボーリング場との間(被告人車を時速四〇キロメートル、中川車を時速三〇キロメートルで計算するとほぼボーリング場近くとなる。)で中川車とすれ違うこととなるはずであるが、中川は、当夜すれ違ったトラックとして宮川魚屋付近でのそれを述べるのみで、弁護人の主張に沿う被告人車と覚しきトラックについては、同人の供述からは何らその存在を窺うことができない点も右認定にあたり看過しえないところである。

 四 被告人車とバスとのすれ違い地点

 以上の検討の結果を踏えて、被告人車とバスとのすれ違い地点等について今一度考察すると、被告人の供述中、バスとすれ違ったのがクランクよりも手前の地点であったとの点は右クランクが極めて特徴的な道路状況であることから、その限度では措信してよいとみられることのほか、既に検討したとおり、バスとのすれ違い地点が「阿賀の川タクシー」の看板付近ではありえないこと、中川車が宮川魚屋付近ですれ違ったトラックを被告人車とみると、バスと中川車の違反の違いから、バスは既に中川車より相当程度前方を走行しているものとみるのが合理的であることなどの点を考慮すれば、被告人車は事故現場から新潟交通の津川営業所までの間において、斎藤運転のバスとすれ違ったものとみるべきである。したがって、本件発生の状況を時間的順序に従ってみると、まず、波多野が目撃した状況のとおり、被害者がふらふらと現場付近の路上に進出し、転倒、横臥しているところへ、斎藤運転の定期バスがさしかかり、対向車線上に横たわっている被害者を見ながら通過し、その後バスとすれ違った被告人車が本件現場にさしかかったとみるのが相当である。

 五 西会津派出所前での検問

 関係証拠によると、被告人車は、現場を通過したあとそのまま会津若松市に向けて国通四九号線を走行し、午後九時五五分ころ、現場から約二六キロ余の地点にある福島県喜多方警察署西会津派出所前で交通検問に会い、約五分ほど停車して警察官から住所、氏名等を聞かれ、車の異常の有無について簡単な検査を受けた後発進したが、この時入れ違いに佐藤芳賢運転の二トントラックが右検問場所にさしかかったことが認められる。

 ところで、この佐藤は、当夜新潟市内の取引先から会津若松市の自宅に戻る途中、事故直後に現場にさしかかり、同所で他の数台の車両とともに暫く事故処理を待った後、自己が先頭となって発進し、検問場所まで他の車両を追越すことも、逆に他車両に追越されることもなく走行し、検問場所では事故後最初に到着した車両ということで、警察官から事情聴取を受けたものであることが同人の供述から明らかである。

 以上の事実に、被告人自身も現場から検問場所までの間に他の車両を追越し又は追越されたことがないと供述していること、現場から検問場所に至る国道四九号線は、ほほ一本道で、その間若干の枝道もあるが、トラック等が通り抜けるようなめぼしい道路は存在しないことなどを加味して検討すると、被告人車の検問場所通過時刻及び佐藤車との先後関係などからも、被告人車を加害車両として全く矛盾のない結果が出ているものということができる(弁護人は、佐藤車の走行速度に不合理な点があるとするが、現場到着時刻やそこでの停車時間、検問場所到着時刻はいずれもある程度の幅をもって考えることができるので、その数値のとりようによっては、必ずしも不自然な速度となるものではない。)。

 六 以上により、主に時間的側面に着目して検討した結果、被告人車を加害車両と考えざるを得ないことが明らかとなった。

第四 被告人車に残された痕跡

 一 被告人車の付着物

 関係証拠を総合すると、本件事故の二日または三日後に被告人車を見分したところ、その車体に衝突痕とみられるような凹凸ないし破損個所は存在しないが、異物の付着、布目痕、何かに擦ったとみられる痕跡等が発見されたことが認められる。それらの痕跡すべてが、直ちに本件事故と関連性を有するものとはいえないにしても、鑑定の結果等も参酌すると、少なくとも次の三点の付着物、即ち

 (イ) 右後輪(ダブルタイヤの外側のもの)外側面に、幅約二〇センチメートル、長さ約一九センチメートルの範囲で付着していた血液様のもの

 (ロ) 右血液様のものの中に塗り込められた状況で付着していた毛髪様のもの二本

 (ハ)右後輪後方の泥除板に付着していた血液様のもの

は本件事故との関連性があるものと認められるので、これらにつき、以下、検討を加えることとする。

 二 右後輪付着の血液様のもの

 (一)これについては、鑑定人桂秀策作成の鑑定書及び同人に対する当裁判所の尋問調書(以下、桂鑑定という。)によって、「O型の人血」と認めることができる。

 弁護人は、同鑑定につき、同鑑定人が予断をもって鑑定に臨んだとか、同鑑定の手法である顕微沈降反応が開発されて日もまだ浅く、鑑定方法としての科学性に疑問があるとか、同鑑定人はその結論に自信をもっていないことが窺われるとか、または、鑑定の際とられた技法或いは判断の導き方が論文等で発表されている顕微沈降反応のそれと合致しないなどと主張してその信用性を争っている。

 しかし、関係各証拠によれば、桂鑑定で用いられた顕微沈降反応は、昭和三七年秋ころ、同鑑定人によって、従来の輪環反応をもとにして新たに開発された人獣血鑑別法であるが、手法に特殊性はあっても、原理そのものは輪環反応と同じく沈降反応を観察するものであり、既に全国で数箇所の警察においても採用実施されており、殊に微量血痕の判別においては輪環反応を含む他の手法よりも鋭敏度が高く有効なところから、微量血痕の鑑定においてかなりの実務例があること、技術的な面においても、開発当初はともあれ、最近では工夫が重ねられて安定したものとなっており、ある程度これに習熟すれば、特に困難な点もなく、反応の有無の読み取りも容易であることが認められるのであり、鑑定方法としての科学性に何ら疑問の余地がないことは明らかである。さらに、予断をもって鑑定に臨んだとか結論に確信をもっていないとかその他同鑑定について弁護人が主張する諸点は、関係証拠を精査すれば、およそ弁護人の独断に基づく一方的な主張であることが明白であって、全く失当であり、採るに足りない。むしろ、桂鑑定はその道の第一人者の手になる周到、綿密な検査法を駆使したものであって、その結果は大いに信頼すべきものということができる。

 (二) ところで、この右後輪付着物から採取した別の検体について、鑑定人船尾忠孝の輪環反応による鑑定(以下、船尾鑑定という。)では、人血との証明が得られない旨の結果となっているので、右桂鑑定の信用性を判断するうえにおいて、この点を検討しておく必要があると思われる。

 そこで、両鑑定の検体についてみるに、桂鑑定に供された検体は、前記第四の一の(イ)に記載したタイヤの付着物から、昭和五〇年一二月二二日昼ころ、宮城県岩沼警察署鑑識係の司法警察員林長が、水に浸した木綿糸でこすりとったものであり、他方、船尾鑑定に供された検体は、同じ付着物から、同月二三日午前中に、新潟県警察本部刑事部科学捜査研究所技術吏員横山修一が木綿糸でふきとった(糸を水に浸して使用したかどうかは必ずしも明らかでない。)ものである。そして、前者は桂鑑定に供されるまでそのまま検察庁、裁判所等の記録に綴じられて保管されていたが、後者については、採取者である横山によって、その検体の一部が切り取られて、フィブリン平板法による検査を施された後、その残余が、当裁判所に押収され、それが船尾鑑定に回されたものである。

 以上のように、両鑑定の検体は、たとえ同一箇所から採取されたものであるとはいっても、採取者は全く別人で、採取の機会も異なり、必然的に採取の方法にも若千の相違が認められるから、その鑑定の結果にくい違いが出たとしても、必ずしも不自然なこととはいえないのであるが、船尾鑑定において用いられた輪環反応と、桂鑑定に用いられた顕微沈降反応では、微量血痕に対する鋭敏度が異なり、後者は、前者よりも鋭敏度において、少なくとも一万倍は勝るとされているのであるから、本件の如き、血液がタイヤに付着し、そのタイヤから木綿糸でこすりとるというように、転写を重ねたことにより、反応に必要な血色素の総対量が減少した可能性のある検体(この場合、タイヤ自体が水にぬれた訳でもなく、他方、水に浸した木綿糸で採取したとしても、そのことによる希釈度はそれほどのものでもないのだから、検体に付着していた血液が、水等で希釈されて薄くなっているかどうかという、希釈倍数の面での考慮はあまり必要とは思われない。)の鑑定においては、顕微沈降反応がはるかに優れたものと認められること、船尾鑑定においては、右に記載した検体の由来が詳しく知らされなかったことから、検体の陳旧度(横山が採取してから船尾鑑定に供されるまでに約二年七か月経過している。)に対する配慮が乏しく、かつ、検体からの浸出液の濁りを、血液のみに由来するものと考え、その後の検査を安易に進めた節の窺えること、船尾鑑定の検体については、採取直後に、前記横山によって、輪環反応よりも鋭敏度が高いとされているフィブリン平板法による検査がなされ、明らかに人血の反応があったことなど関係証拠によって認められる事実を総合すると、船尾鑑定の結論は直ちに措信し難い面もあり、少なくとも、それが桂鑑定の信用性に影響を及ぼすものとは到底考えられない。

 三 右後輪付着の毛髪様のもの二本

 これについては、捜査段階において、前記横山により、「人頭毛髪(性別不詳)で引抜き及び引抜きによると思われる」旨の鑑定が、また、公判段階においては、前記船尾により、「性別不詳の人毛髪でそのうち一本の血液型は0型」との鑑定(但し、引抜きによるものか自然脱落かは分からないとしている。)がそれぞれなされている。

 これに対して、弁護人は、その採取場所に証拠上くい違いがあって、真にタイヤ側面から採取したものかどうか疑問があるうえ、その本数が船尾鑑定では四本となっていることから、船尾鑑定の被検体が採取した資料であったかどうかも疑わしいと主張する。

 しかしながら、右資料は、その採取者である林長が、昭和五〇年一二月ニニ日付採取報告書において明確にその採取場所を図示して、タイヤ側面からであることを示しており、同人が、前記したように岩沼警察署の鑑識係で、平素このような採証活動を専門としていることに鑑みると、その内容の正確性については疑問の余地がなく、弁護人の挙げる、これとは内容的にくい違いを示しているところの、文屋義隆外二名作成に係る同日付車当り捜査報告書は、事件の概要を上司に報告するため取り急いで作成されたものであり、作成者の文屋自身、同報告書に記載した採取場所は不正確であったことを認めているのであるから、前記林作成の採取報告書の記載を信用すべきものであることは明らかである。また、その本数については、林が採取し、これを横山が顕微鏡で観察したあと、当裁判所に押収されるまでの段階では二本(昭和五三年押第四二号の3)となっているのが、船尾鑑定において四本となっている点は、一応疑問ではあるが、横山鑑定と船尾鑑定のそれぞれの資料を対照すると、横山の鑑定の際、一部が切断され、見かけ上四本となったが、検察庁、裁判所においてこれを受入れる際、誤って元の二本との記載をそのまま転記した可能性も窺われるところで、いずれにしても、資料自体がいずれかの段階ですりかえられた等の形跡は、証拠上全くこれを見出すことはできない。

 弁護人の主張はいずれも失当である。

 四 右後輪泥除板付着の血液様のもの

 これについては、前妃桂による「0型の人血」との鑑定がある。

 弁護人は、横山修一が被告人車から資料採取中、この血液様のものについてロイコマラカイト緑反応を実施したところ、陰性であった旨供述している点をとらえて、右桂鑑定の信用性を争うほか、第四の二に記載したと同旨の主張をするが、後者については既に記載したとおりであるし、前者については、横山の検査は、被告人車を前にして、その資料を採取すべきかどうかを知るための極く短時間のうちに行なった簡易な予備試験であるから、これとは別の検体(林が採取したもの)について、十分な設備と時間をかけて検査を施した桂鑑定の精度とは、もともと比較すべくもなく、また、鋭敏度の点において、ロイコマラカイト緑反応は顕微沈降反応に劣ることに照らしても、横山の検査結果が桂鑑定の信用性に影響を及ぼすものとは到底考えられないところである。

 五 以上により、被告人車には、少なくとも右後輪とその周辺に、被害者と同じO型の人血及びO型の人毛髪が付着していたことが認められるのであるが、それらの付着の状況、第一の項に記載した現場路面や死体の状況、被告人が、犬、猫の類いはともかく、人間を自ら轢くか、そのような事故現場に通り合わせるかしてタイヤの側面に人血や人毛髪を付着させることとなる状況を、本件を別として何ら供述していないこと(そのような機会が本件事故のころにそう何度もあるとは考えられない。)などを総合すると、名付着の血液及び毛髪は本件被害者のものであると認めざるを得ない。

 六 なお、弁護人は、西会津派出所での検問の際、右の血液や毛髪が付着しているのを発見されなかったことをもって、その時点ではこれらのものは被告人車に付着していなかったと主張するが、前記したとおり検問の所要時間は僅か五分程度のもので、しかも、深夜懐中電灯の灯りを頼りに行なったものであるから、その付着場所の異常性も考慮すると、検問時に見過されたこともあながち不合理なこととはいえないのであり、その時点でこれらのものが付着していなかったものと即断することができないことはいうまでもない。

第五 事故の態様

 一 弁護人は、主として鑑定人上山滋太郎作成の鑑定書(以下、上山鑑定という。)に拠りながら、本件事故の態様について、加害車両は右前輪で被害者の頭部を轢過し、被害者の身体を約一・四メートル会津若松市寄りに移動させた後、さらに右後輪内側タイヤが頭部を、外側タイヤが上胸部を轢過したと考えるのが、現場路面の痕跡、死体の位置・姿勢、死体の損傷の部位・程度に合致した自然な見方であるとし、従って加害車両の右後輪の外側に被害者の血液が付着することはあり得ないから、第四に記載した付着物が仮に人血や人毛髪であったとしても、それは被害者のものではないことが明らかで、被告人車は本件事故とは無関係であると主張する。

 そこで、以下、必要な載囲で、本件事故態様をどのように考えるべきかについて検討を加える。

 二 ところで、既に第二の三で記載した斎藤操の目撃した事故直前の被害者の位置・姿勢及び道路状況等から考えると、新潟市方向から現場にさしかかった被告人車は、現場付近で大きなハンドル捜査をしない限り、当然右側の前・後輪で連続して被害者を轢過するのが自然の成り行きというべきであるが、この点は、第一の二に記載した被害者の死体所見において、頭部から顔面の部分に見られる損傷と下顎部から顎部、上胸部にかけての損傷のあいだに、その程度にかなりの違いがあること、その他頭蓋骨の骨折の具合などからも首肯されるところであって、まず疑問の余地のないところであろう。

 そこで、被告人車は、先ず、右前輪で被害者を轢過することとなるが、その位置は、現場路面に残された痕跡から判断すると、被害者が死亡していた位置から約一・四メートル新潟市寄りの地点にある大小の擦過痕の辺りということになると思われる。

 ところで、この擦過痕のうち大きいものについては、その外側(会津若松市方面に向かって左側)に義歯によるひっかき痕があり、またその会津若松市側終端に義歯等四本が落ちていたことから、被害者の顔面がタイヤで押さえつけられながら路面を擦過してできたものと考えざるを得ない。そして、義歯によるひっかき痕のある部分に、被害者の上顎または下顎があったものであろうから、被害者が、当時、頭を胴体よりは左側(会津若松市方面に向かって)の位置に置いていたことを考え併せると、幅約一〇センチメートルの擦過痕の大部分は、被害者の顎よりも下方の部分、即ち顎部の辺りが、上からタイヤで押さえつけられたことにより、路面にこすりつけられてできたものということになる。第一の四の(チ)に記載した被害者の顎部にみられる表皮剥脱の存在が、この推測を裏付けるものである(なお、路面にある小さい方の擦過痕が、どのようにしてできたのかは証拠上必ずしも明確でないが、被害者の左手指も轢過されているとみられるので-第一の四の(ワ)(レ)参照-、左手指が路面にこすりつけられてできたものとみて矛盾はないと思われる。)。

 具体的な轢過の態様については、関係証拠を精査検討しても、なお不明の部分が多く、到底その全容を解明し尽すことはできないが、右にみた被害者の当初の位置姿勢と中川発見時の被害者の状況、路面に被害者の出血部位(特に前顎部の損傷)が直接触れた痕跡のないこと、被害者の損傷の部位・程度、被告人車の形状などを総合すると、一応次のように考えられる。

 即ち、被告人車は、右前輪で被害者の身体を押しつけるようにして、少なくとも二〇センチ程度前方へ進んだ後、大きい方の擦過痕の終端付近で、被害者の身体に乗りあがり、これを轢過しながら、巻き込むようにして強く被害者を回転させつつ前方に運び、ほぼ中川の発見した時の位置まで移動させたところで、右後輪外側タイヤでさらに被害者の頭部から顔面上半部を轢過したというのが、この場合、状況に即した無理のない見方であろう。少なくとも、被害者の前顎部に多量の出血を伴なう損傷を与えて後、なお被害者の身体を移動させた形跡は、関係証拠の中からはこれを見出すことはできないので、右後輪轢過の際には、被害者が中川の発見した位置にいたとみるべきこと、及び被害者が前輪で轢過され会津若松市寄りに約一・四メートル移動する間に、その頭部も当初の位置より少なくとも二〇ないし三〇センチメートルはセンターライン方向へ寄っているものとみられるから、右後輪外側タイヤのみで被害者の頭部付近を轢過しているとみるべきこと、以上の二点は証拠上動かし難いところというべきである(なお、真直ぐに走行した場合、被告人車の前輪通過位置と右後輪外側タイヤの通過位置については、検察官作成の捜査報告書から算出すると、外側後輪が前輪よりも通過位置がやや外側へはみ出しているにしても、その差は、片側でせいぜい三ないし四センチメートルであり、ほぼ同位置を通過するといってよい。)。

 三 轢過の態様が以上のように認められるとすると、被告人車右後輪外側タイヤで被害者を轢過する際には、既に右前輪轢過の際に鼻や口の周辺にかなりの出血があり、これが後輪轢過の過程で、その側面に付着するということもあって不思議ではないといえよう。鑑定人江守一郎の鑑定結果は、右後輪のみによる轢過を前提としたものである点で本件に適切とはいえないものであるうえ、その分析手法もいささか機械工学的なものに偏りすぎているといわざるを得ないので、採用できない。

 四 仮に、弁護人の主張する轢過の態様に従った場合、右前輪で頭部を轢過したとの点はともかくとしても、そのあと被害者の身体は前記のとおり会様若松市方面に向かって右斜め前方へ移動し、当初の位置から見ると、少なくとも二〇ないし三〇センチはセンターライン側に寄っており、かつ、前記したように、直進した場合には右前輪と右後輪外側タイヤがほほ同位置を通過することを考え併せると、被告人が殊更右方へ向けてハンドル操作でもしない認り、右後輪外側タイヤが被害者の上胸部を轢過することはおよそ考えられないところである。したがって、この場合には、右後輪では被害者を轢過していないか、またはせいぜいその外側タイヤで被害者の頭頂部辺りを轢過する程度に止まるであろうが、そうすると、被害者の頭部から上胸部にかけての損傷が生じている原因を説明できなくなるであろう。

 弁護人の主張は、被告人車の前・後輪による轢過の間における被害者の身体の移動を無視し、かつ、被告人車の前・後輪の通過位置の差を不当に過大視する不自然、不合理なものというほかない。

第六 被告人の供述内容

 一 被告人は、第一回公判以来、一貫して自分は事故とは無関係であるとして無実を主張している。しかし、捜査段階においては、当時、事故を起こしたことには気付かなかったとしながらも、

 「事故はもしや私がやったのではないかと思う。」(司法警察員に対する昭和五〇年十二月二三日付供述調書)

又は、

 「私が事故を起こしたことはまちがいありません。」(司法警察員に対する同月二四日付供述調書)

或いは、

 「専門家が自分の車についていた痕跡を人の血や髪にまちがいないというなら、私の右後車輪でひいているのかもしれません。」(検察官に対する供述調書)

などと述べて、一応事実を認める供述をしていたものである。特に、二通の司法警察員に対する供述調書では、右のように自車が事故を起したと思う根拠について、いくつかの理由を挙げているが、そのうち注目すべき点は、

 「センターライン寄りの消雪パイプすれすれに時速四〇キロで進行中、急に車の進行状態が後から何かに引っ張られるように、スムーズであった車の進行が鈍ったような気がした。これに気付いたと同時に、急にハンドルが左か右か分からないがとられ、バウンドした状態となり、私の体が少し浮き上がった。そして、急に左端の方へ進路が変わったが、これは自分がハンドルを意識的に左に切ったのか、自然に左に進路が変わったのか記憶にない。ともかく急激に進路が変わり、これを自分がハンドル捜査をして正常に戻した。バ ウンドしたとき何か音がしたと思うが、その記憶はない。」(同月二四日付供述調書。同月二三日付のものもほぼ同旨)

として、現場付近で異常走行状態を体験したことを供述していることである。そして、関係証拠を総合すれば、事故から四日後の同月二四日に、被告人を自動車に乗せて、現場付近の路上を走行し、被告人にその異常走行をしたと思われる地点を指示させたところ、当時の事故現場には直ちにそれと分かる痕跡は何も存在しなかったにもかかわらず、被告人自ら、実際の事故現場から僅かに約一四・七五メートルしか離れていない会津若松市寄りの地点を指示したことが認められる。これらは、被告人車と本件事故との関連性を強く窺わせる極めて重要な事実というべきである。

 被告人は、公判廷においてはこれを消雪パイプの上に乗った時のこととして述べたなどというが、現場付近の消雪パイプは周囲の路面より僅かにニセンチほど高いだけのものであるから、これに乗ったとしても、被告人が供述したほどの異常走行をするとは到底考えられないものであり、被告人の弁解は不自然というほかなく、またその弁解の内容にも前後変遷がみられ、これを採用することはできない。

 二 弁護人は、被告人の二通の司法警察員に対する供述調書について、(一)被告人が訂正の申立をしたのに取調官がこれを聞き入れなかったものであるから、そもそもこれらは被告人の供述を録取した書面とはいえないとか、又は(二)捜査官にすらいまだ被告人車の付着物が人血かどうか判明していない取調当初の時期から、被告人に対し、車に人血がついていたとことさら虚偽の内容を告げて被告人の供述を導いたもので、偽計を用いて被告人を錯誤に陥れて取調べを進めたものであり、或いは、否認すれば身柄を拘束すると述べるなどして被告人に心理的強制を加えたものであるから、被告人の供述には任意性がないとか主張し、被告人もこれに沿う供述をしている。

 そこで、この点について判断するに、先ず、(一)の点であるが、そもそもこの点に関する被告人の供述自体極めて曖昧で、一体どの点についてどのような訂正を求めようとしたのか一向に明らかではないが、この点をおくとしても、被告人は、自己の訂正の申立について、取調官から最終的に、これを封じられたというのでなく、ただ「最後まで読んでからにせよ。」と、その時期をずらされたことを供述しているにすぎないうえ、ほぼ同内容の調書が昭和五〇年一二月二三日と二四日に相次いでできあがっていること、さらに被告人の取調官である佐藤英二の証言内容(第十三回及び第一四回公判調書)に徴すれば、弁護人のこの点についての主張が失当であることは明らかである。

 次に、(二)の点についてであるが、初めに、取調官が被告人車に人血が付着していると虚偽の内容を告げて取調べを進めたことがあるかどうかを検討するに、同月二三日の被告人の取調べに先立って、新潟県警の科学捜査研究所技術吏員横山修一を中心として、被告人車の見分が行なわれ、第四の一の(イ)の血液様のものなどが採取されたが、右横山、証人佐藤英二及び同富谷定儀の証言等を総合すると、横山は、先ず被告人車の前でロイコマラカイト緑反応を実施して右の付着物が何かの血液であることを確かめたうえ、結果を捜査活動に役立たせるため、直ちに宮城県警に向かい、同県警の鑑識部の技術吏員富谷定儀の協力も得て、検査をしたところ、O型の人血との反応があったので、同日午後三時ころ、このことを被告人を取調中の佐藤英二に電話連絡し、佐藤は右結果を被告人に告げて取調を続行したものであることが認められる。

 右の点は、問題となる被告人の供述調書(一二月二三日付)の内容自体に照らしても、首肯されるところであり、取調べの当初から人血が付着していたと決めつけての取調べを受けたとの被告人の供述はにわかに措信し難く、弁護人の主張は到底採用し得ない。

 さらに、(二)のうち取調官が被告人に対し、事実を認めないと身柄を拘束すると述べて被告人に心理的強制を加えたかどうかについては、確かに取調官からその趣旨の発言があった旨の被告人の供述も存在するが、他方、被告人は、当時人血や毛髪が自己のトラックについていたということから、轢いたという直接の記憶はないが、もしや自分がやったのではないかと考えるようになった旨を繰り返し述べ、身柄を拘束する旨の取調官の発言が、事故を起したことを認めるかどうかに影響したとは被告人自身供述しておらず、また、被告人は供述調書の中で、記憶のないことはないとして始終一貫述べていることに照らしても、仮に、取調官から被告人のいうような発言がなされたとしても、そのことによって被告人が心理的な強制を受けたものとは到底認め難い。この点についての弁護人の主張もこれまた失当である。

第七 結論

 以上の検討結果を総合すれば、本件事故は被告人が惹起したものというほかなく、全証拠を精査しても、その間に合理的疑いは存しない。

 (法令の通用)

 被告人の判示所為は、刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中禁錮刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を禁錮六月に処し、情状により刑法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から二年間右の刑の執行を猶予することとし、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

 よって、主文のとおり判決する。