遠藤事件概要

 

 
1975年12月20日

 午後9時半頃、新潟県蒲原郡津川町の市街地に至る国道で轢き逃げ死亡事故が発生した。

 ちょうどその頃、遠藤さん(当時トラック運転手、20歳)は同町市街地を抜けたあたりを会津若松方面へ向かってトラックを走らせていた。

 事故発生からおよそ30分後には緊急検問が実施され、遠藤さんも福島県西会津町で2人の警官による車体各部の入念な検問を受けたが「異状なし」としてこれを通過している。

同12月22日〜24日

 休日を挟んだ22日出勤直後、上司や同僚、さらには調べに来た警察官2名でくまなく点検した時にはなかったはずの「人血らしいタイヤのシミ」が同日午後、警察署で発見されたことから、警察は遠藤さんを轢き逃げ犯人と決めつけたかのように取り調べや見分を進め、遠藤さんの意思や記憶に反する「自白調書」を作りあげた。

 こうして遠藤さんは警察から津川町事故の轢き逃げ犯人と「断定」されたが、幸いにも逮捕には至らず、「自白調書」作成後は取調べ等から解放された。以後、警察及び検察による取調べ等は一切なかった。

1977年2月

 事故から一年以上も経ったこの頃、突然「業務上過失致死罪」で新潟地裁に起訴された。なお、通常櫟き逃げ犯人には「道路交通法(負傷者救護義務)違反」が課せられるところ、起訴状にその記載はなかった。

1982年9月

 足かけ6年、31回の公判を経て「有罪判決」、刑は「禁錮6月、執行猶予2年」。

 この間、裁判官は検察側に有利な証拠ばかりを採用するなど、一貫して検察側寄りの訴訟指揮を行なった上、判決においては、問題の「タイヤのシミ」は人血ではない、かつ、そのような位置には付着しえないといった「鑑定」結果を無視、遠藤さんのアリバイにかかわる争点については検察官すら主張していない事実を「認定」し、その存在を否定している。

1983年1月

 東京高等裁判所に控訴。
1984年4月

 控訴棄却。

 普段はあまり感情を表に出さない遠藤さんが、この時はこみ上げる怒りをこらえられず、退廷しようとする裁判官らの背中に向かって「私は轢いていません!裁判所がどう言おうと私は轢いていないのです!」と叫んだ。しかし裁判官はそれに一瞥もせず退廷。

 直ちに上告。上告審では異例の口頭弁論も行なわれた。

1989年4月

 最高裁は一、二審とまったく同じ証拠にもとづき審理した結果、全員一致で「原判決(高裁判決)および第一審判決を破棄する。被告人は無罪」との判決を言い渡した。(なお、最高裁自らが「有罪・無罪」の判決をすることは極めて異例であるが、本件で最高裁は「これを無罪としなければ著しく正義に反する」と明言した。)

 判決後の記者会見の席で遠藤さんは「13年間の苦労が涙になって出てきました」と言って涙を流した。この判決は『ニュースステーション』(テレビ朝日)を初めとして大きく報道された。

 しかし、この無罪判決までには実に13年もの歳月を費やしている。事件発生当時は20歳の青年が、この時すでに34歳になっていた。

 遠藤さんは言う。

 「これで刑事裁判は終わった。これからは自分の人生を楽しく過ごそうと思いました。失った13年の青春時代をなんとか取り戻そうと思いました。・・・・・被告人という肩書を背負って暮らした13年の辛さは決して忘れることのできない、言葉では言い表せない重圧でした。 ・・・・・(刑事裁判の一、二審は)私を犯人にするための暗黒裁判であったとしか言いようがない。彼らに責任を取らせることが本当の意味での刑事裁判の終わりであり、人を裁く裁判官は自らをも裁くべきであり、責任をとるべきが筋です。」

1991年1月

 国および裁判官六名と起訴検察官の個人責任を追及する国家賠償訴訟を提起。

 この訴えには、このような杜撰な起訴や審理を二度と繰り返さないでほしいとの願いが込められている。

 こうした思いに賛同し、また自らも不合理な裁判による辛苦をなめている多くの弁護士が代理人として名乗りをあげ、その数は現在約660名にのぼっている。

1996年3月

 東京地裁民事38部は、「原告(遠藤さん)の請求を棄却する」原告敗訴の判決を言い渡した。

 遠藤さんらによる、被告裁判官に対する本人尋問の請求は最後まで退けられた。

 判決では「普通の裁判官の4分の3以上が無罪とするであろう事件について、誤って有罪とした場合には、『著しく不合理な事実認定』であって国家賠償法上「違法」となる(損害賠償責任がある)。しかし、本件ではそれほどの『不合理な事実認定』があったとは言えない。」と述べて、検察官のみならず裁判官をも免責した。

[tommi]

 現在、東京高裁民事9部において控訴審が進行中です。
 

 

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